茅葺き屋根の家
東北の茅葺き屋根の家。
私の育った東京東部はまだ、田圃の畦道もあり、生家も茅葺きだった。
旧家であり、血族では無いにしろ何代もの喜怒哀楽を見て来た。
昭和でも裏庭で首を吊った者、それとは知らずに、この木の高さは木登りに適し、私の恰好の遊び道具であった。
祖父は戦前の東京オリンピック目当てで事業を興し、戦争でオリンピック計画も頓挫。祖父の事業も終焉を迎え、38歳で負債を残し心労で逝った。
父も貧しさの中で暮らし、32歳で結核で逝った。
家の離れは一時、結核の隔離部屋で使われていた。
後年は著名な工芸家に工房に近いと理由に貸し、戦時中の贅沢なご馳走と多くの人の来客があったと、祖母は不快そうに話していた。
食道楽の祖母は戦時中でろくな食べ物の無い時に、ご馳走は食べていた工芸家を羨ましく思っていた。
とにかく茅葺き屋根の私の意識は暗い闇の中のようで、常に寂しかった。
ただ広い畳の部屋で火鉢で冷たいしもやけの手を温めていた。
一度は火鉢の火が、着ている服に燃え移り危うく、命を落としかねた。
孤独さと寒さで、性格に暗い影を落としたのに違いない。
後年はいろんな人は家の縁側にやってきた。
近所の工場の職工さんが弁当を食べにきたり、毎日、酔っ払って来る伯父さん。
手にはブリキのおもちゃを携えて、また酒を飲み帰って行く。
菊の品評会用の菊作りに庭を貸していた。
時期になると、庭一面に菊の鉢が並び、食卓には菊の花の酢の物が並ぶようになる。
品評会が終わると、家で大勢で祝いをした。
当時はまだ珍しいご馳走が並び、毎年、秋のその時期を楽しみにしていた。
菊作りのおじさんは役所勤めの傍ら、菊作りに没頭していました。
風呂場は別棟の小屋にあり、夏休みは毎日、夕方は捲きで風呂焚きが日課だった。
ひと夏、私は落語のじゅげむを風呂焚きの合間に覚えることに終始した。
母から九九の暗記を命じらた時期と一緒に。
私にとって、暗い茅葺き屋根の家は毎日いろんな人が出入りしていた。
いまの生活では到底考えられない。
訪れた人には茅葺き屋根の家は安らぎだったのか?
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コメント
大内宿??
日本の正しい田舎・・・と,言う感じですね.
ネギで食べるそば,食いました??
投稿: こやま@ | 2009年4月26日 (日) 23時46分
入った蕎麦屋にねぎそばが、無かった。(;ω;)
悔しいから、暇な時に家で、ねぎで蕎麦食べるか、
近所のすかした蕎麦屋にマイ箸と言って、懐にねぎを忍ばして行くか、思案中。┐(´д`)┌ヤレヤレ
投稿: yoshi | 2009年4月27日 (月) 05時54分